第二次世界大戦、国別死者数ランキングTOP10

今日は第二次世界大戦の死者数を国別で紹介したいと思います。興味深い内容なのでぜひ最後まで見ていってください。

目次

10、ルーマニア

ルーマニアの国旗

死者数 83万人

1930年代後半、ルーマニアは国王カロル2世の下で不安定な政治状況にあり、国内ではファシスト的な鉄衛団(レジオナラ)が台頭し、外部ではナチス・ドイツとソビエト連邦の圧力にさらされていました。1940年9月、ルーマニアは将軍イオン・アントネスクを首相とする独裁政権が成立し、アントネスクは枢軸国側に加わることを選択しました。ルーマニアはドイツの重要な同盟国として、1941年6月に開始されたバルバロッサ作戦(独ソ戦)に参加し、ソ連に対する攻撃に加わりました。ルーマニア軍はベッサラビアと北ブコヴィナ(ウクライナとの国境付近)の奪還を目指し、一時的にこれらの地域を回復することに成功しました。また、ルーマニアはドイツ軍の補給路として重要な役割を果たし、石油資源を提供しました。しかし、戦争の趨勢(すうせい)が変わり、1944年8月にはソ連軍がルーマニア国境に迫ると、ルーマニア国内ではアントネスク政権に対する反発が高まりました。国王ミハイ1世はクーデターを起こし、アントネスクを解任して連合国側に鞍替えしました。これにより、ルーマニアは枢軸国から離脱し、ソ連軍と共にドイツ軍に対する戦いを開始しました。

9、ユーゴスラビア

ユーゴスラビアの国旗

死者数 100万人

第二次世界大戦中、ユーゴスラビアはナチス・ドイツの侵攻を受け、国土は分割されました。しかし、パルチザン抵抗運動を率いたヨシップ・ブロズ・チトーの活躍により、戦後は社会主義国家として再建されます。1945年、ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立し、チトーはその指導者として長年にわたり国を率いました。チトーはソ連との距離を保ち、非同盟運動の中心的存在として国際的に影響力を持ちました。ユーゴスラビアは、6つの共和国(セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)と2つの自治州(コソボ、ヴォイヴォディナ)からなる連邦国家でした。多民族国家としての特徴は、文化や言語の多様性に富んでいましたが、同時に民族間の緊張も常に存在していました。

8、フランス領インドシナ(ベトナム)

仏印の国旗

死者数 150万人

第二次世界大戦中のフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)は、複雑な政治的・軍事的状況に置かれていました。1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏すると、フランス領インドシナはヴィシー政権の支配下に入りました。これにより、日本はフランスとの協定を結び、インドシナへの進駐を開始しました。日本は当初、フランスの行政機構を温存しつつ、資源の確保と戦略的な拠点としてインドシナを利用しました。しかし、日本の支配は次第に強化され、現地住民に対する圧政が強まりました。日本は米やゴムなどの資源を徴発し、現地経済に大きな打撃を与えました。これに対し、ベトナムの民族主義者たちは独立を求めて動き始めました。ホー・チ・ミン率いるベトミン(ベトナム独立同盟会)は、抗日闘争を展開し、フランスと日本の両方に対する抵抗を組織しました。これがのちのインドシナ独立戦争ーベトナム戦争につながっていきます。

7、英領インド

ファイル:British Raj Red Ensign.svg

死者数 250万人

第二次世界大戦中、英領インド(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ)はイギリス帝国の重要な一部として、戦争の行方に大きな影響を与えました。当時、インドは独立を求めるナショナリスト運動が高まっていましたが、戦争が勃発すると、イギリスはインドの資源と人的資源を戦争努力に動員しました。インドは戦争中、約250万人の兵士を供給し、これはイギリス帝国全体で最大の兵力でした。これらの兵士は北アフリカ、中東、東南アジア、そしてヨーロッパの戦線で戦いました。特に、インド軍は北アフリカ戦線でのドイツ軍との戦いや、ビルマ(現ミャンマー)での日本軍との戦いで重要な役割を果たしました。

6、日本

日本の国旗

死者数 310万人

1930年代、日本は軍国主義の台頭とともに、アジアでの拡張政策を進めました。1931年の満州事変をきっかけに、日本は満州国を建国し、中国本土への侵攻を開始しました。これにより、日本は国際社会からの孤立を深め、1937年に日中戦争が勃発します。1941年12月7日、日本は真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦争に突入しました。これにより、第二次世界大戦の太平洋戦線が開かれました。日本は当初、東南アジアや太平洋諸島での迅速な占領を成功させましたが、1942年の中途島海戦を転機に戦局は悪化します。アメリカを中心とした連合国軍の反攻により、日本は次第に追い詰められていきました。1945年8月6日と9日、広島と長崎に原子爆弾が投下され、多くの民間人が犠牲となりました。これとソ連の満州侵攻を受けて、日本は8月15日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を宣言しました。戦争の結果、日本は国土が荒廃し、多くの人命が失われました。また、戦後の占領期には、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による民主化政策が進められ、憲法改正や経済改革が行われました。

5、オランダ領東インド(インドネシア)

オランダ領東インドの国旗

死者数 300~400万人

第二次世界大戦中のオランダ領東インド(現在のインドネシア)は、日本軍の侵略と占領によって大きな変革を経験しました。1941年12月、日本は真珠湾攻撃と同時に東南アジアへの侵攻を開始し、1942年3月にはオランダ領東インドを占領しました。この地域は豊かな天然資源、特に石油やゴムを有しており、日本にとって戦略的に重要な場所でした。日本軍の占領下で、オランダ人や他の西洋人は抑留され、現地住民は日本軍の支配下に置かれました。日本は「大東亜共栄圏」の理念を掲げ、現地住民に対して独立の希望を抱かせましたが、実際には厳しい統制と搾取が行われました。多くの現地住民が強制労働に駆り出され、食糧や資源の略奪により生活は困窮しました。しかし、西洋からの支配→日本の支配となったことで独立の機運がますます増加、残った日本兵も手伝ったとか言われていますがインドネシアは戦後独立しました。

4、ポーランド

死者数 560万人

1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、これが第二次世界大戦の勃発を引き起こしました。ドイツ軍は電撃戦(Blitzkrieg)と呼ばれる迅速な攻撃作戦を展開し、ポーランド軍は圧倒的な戦力差に直面しました。さらに、9月17日にはソ連が東から侵攻し、ポーランドは両大国に挟撃される形となり、国家としての独立を失いました。ポーランドはその後、ドイツとソ連によって分割占領され、多くのポーランド人が強制収容所やシベリアの強制労働キャンプに送られました。特に、ドイツ占領下ではユダヤ人に対する迫害が激化し、ポーランド国内のユダヤ人コミュニティはほぼ壊滅状態に陥りました。ワルシャワやクラクフのゲットーでの殺害や、アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所がポーランドに設置され、数百万人が犠牲となりました。を続けました。国内では地下国家(ポーランド地下国家)が組織され、レジスタンス活動が展開されました。

3、ドイツ

ドイツの国旗

死者数 880万人

1933年にアドルフ・ヒトラーが率いる国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が政権を掌握し、ワイマールなドイツは急速に全体主義国家へと変貌を遂げました。ヒトラーの指導の下、ナチスドイツは強力なプロパガンダと恐怖政治を用いて国内を統制し、ユダヤ人をはじめとする少数民族や政治的反対者を迫害しました。1939年、ドイツはポーランドに侵攻し、これが第二次世界大戦の勃発を引き起こしました。ナチスドイツは「電撃戦(Blitzkrieg)」と呼ばれる迅速かつ強力な戦術を用いて、短期間でフランスやユーゴスラビアなどのヨーロッパの大部分を占領しました。しかし、1941年にソ連への侵攻(バルバロッサ作戦)が失敗に終わり、戦局は徐々に悪化していきました。その後スターリングラードでの大敗、バグラチオン作戦によってドイツ国境までソ連軍に追い詰められました。また同時に米英を中心とした連合軍がノルマンディー上陸作戦を成功させ西からもドイツへ迫っていきました。ヒトラーはソ連軍のベルリン攻撃の最中、総統地下壕で自殺しました。ドイツ軍のユダヤ人およびスラブ人への虐殺の犠牲者は600万人(ユダヤ人だけ?)を超えています。

https://www.unic.or.jp/news_press/messages_speeches/sg/46424/

2、中国

台湾の国旗

死者数 2000万人

盧溝橋事件をきっかけとして日本軍と中華民国の戦い、日中戦争がはじまりました。日中戦争は序盤日本軍有利に進みましたが、太平洋戦争にも突入した日本は中国を完全に掌握することができず、日本は負けました。日中戦争の面白いポイントは日本軍の登場によって今まで戦っていた蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党が団結し戦ったところです。まあ共産党側は日中戦争時にはあまり戦力になりませんでしたが。ちなみに共産党は日中戦争の最中および戦後の混乱している最中に力を増やし国民党を破り中華人民共和国を建国しました。日中戦争の最中には上海爆撃や南京大虐殺など日本軍による虐殺が多くありました。

1、ソビエト連邦

ファイル:Flag of the Soviet Union.svg

死者数 2700万人

ソビエト連邦は、一番枢軸国打倒に貢献した国といえます。ドイツ軍(イタリアやルーマニアもいた)は1941年に約300万人の大軍団でソビエト連邦へ侵攻(バルバロッサ作戦)しました。1943年ごろまでは比較的ドイツ軍有利に戦況は進み、モスクワやレニングラードの手前(レニングラードは包囲)までドイツ軍は迫りました。しかしコーカサス地方へのドイツ軍の侵攻(ブラウ作戦)に伴うソ連の工業都市スターリングラードでの戦いにドイツ軍は破れ(ソ連に包囲された)戦争の主導権がソ連軍に移っていきました。ソ連軍はものすごい物量によってドイツ軍を追い詰めていきドイツ国境まで追い詰めベルリンを陥落させました。しかし国の大部分が戦場になったこと、ドイツ軍の容赦ない攻撃、ユダヤ人やスラブ人への虐殺によって2800万人を超える死者を出しました。詳しくは↓

独ソ戦について
しますけ
しますけ

世界人口の5パーセントがこの戦争で亡くなったそうだよ。

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