ボスニアヘルツェゴビナってどんな国?歴史・経済・観光スポットを紹介します!

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ボスニアヘルツェゴビナって知ってますか?私はサラエボ事件の勉強をするまで知りませんでした。

目次

ボスニアヘルツェゴビナの基礎情報

首都サラエボ
人口327万人(横浜市372万人)
通貨兌換マルク(だかんまるく)
言語ボスニア語 クロアチア語 セルビア語
兌換マルクってなんだ、、、ボスニアヘルツェゴビナは東欧のバルカン半島にあります。

ボスニアヘルツェゴビナの歴史

ボスニア・ヘルツェゴビナは、古代ローマ帝国時代にはイリュリア属州に属していました。その後、ゲルマン人やスラヴ人の侵入を受け、中世にはボスニア公国やヘルツェゴヴィナ公国などの小国が成立しました。

14世紀末にオスマン帝国がバルカン半島に進出すると、ボスニア・ヘルツェゴビナもオスマン帝国領となりました。オスマン帝国支配下では、ムスリムが人口の多数を占めるようになりました。

19世紀末にオスマン帝国が衰退すると、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下に入りました。この時期には、経済発展や民族意識の高揚が進みました。

第一次世界大戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア、クロアチア、スロベニアの3つの国が合併して成立したユーゴスラビア王国の一部となりました。

第二次世界大戦中、ボスニア・ヘルツェゴビナはナチス・ドイツの占領下に入りました。戦後は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国として再建されました。

1991年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国が崩壊すると、ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の3つの民族による内戦(ボスニアヘルツェゴビナ戦争)に突入しました。1995年にデイトン和平合意が成立し、内戦は終結しましたが、多くの犠牲者が出ました。

デイトン和平合意に基づき、ボスニア・ヘルツェゴビナは連邦制国家として再建されました。現在、ボスニア・ヘルツェゴビナは、国際社会の支援を受けながら、民族間の共生と経済発展を目指して取り組んでいます。

難しい、、、

ボスニアヘルツェゴビナの経済

ボスニアヘルツェゴビナのGDPランキング(2024)の順位は111位でハイチやトリニダード・トバゴと同程度の経済規模を誇ります。いまいち分かりにくいので日本で例えると経済規模は鳥取県と同じくらいだそうです。ボスニアヘルツェゴビナの主要産業は林業と鉱業だそうです。ボスニアヘルツェゴビナは戦争などの影響でヨーロッパの中でも少し遅れてる国らしいです。

ボスニアヘルツェゴビナの観光地

サラエボ大聖堂・サラエ

時計台のある大きな建物

サラエボ大聖堂は、ボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボにある国内最大のカトリック教会です。素朴な風合いが僕は意外と好きです。

ラテン橋・サラエボ

教会を背景にした川に架かる橋

この橋は第一次世界大戦の原因となったサラエボ事件が起こった場所です。正しくは橋ではなく橋を渡った先にあるビルの前らしいですが、この橋は銃を撃った犯人の名前から「プリンツィプ橋」と呼ばれていた時期もあったそうです。

バシチャルシア広場/サラエボ

町の広場を歩く人々のグループ

バシチャルシア広場はサラエボの旧市街にあり、そこにはバシチャルシアと呼ばれる職人の街が広がっています。また広場の中心にはオスマン帝国の名残であるセビリという水飲み場があります。バザールのような職人街は、イスラム教徒も多いサラエボならではの観光地です。

ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク/サラエボ

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ガジ・フスレヴ=ベグ・モスクは、イスラム教徒も多いボスニアヘルツェゴビなの中でも特に重要なモスクです。サラエボはヨーロッパの建築とイスラムの建築を同時に見ることのできる珍しい街で、このモスクはサラエボのイスラム建築の象徴となっています。トルコに来たみたいですね!

モスタル

昼間のコンクリート棟や緑の葉樹々に近い茶色のアーチ橋

モスタルはボスニアヘルツェゴビナの古都。中央にある橋はイスラム系地区とクロアチア系地区を結ぶはア氏なので心理的懸け橋となり平和の象徴とされているそうです。街がきれいだー。

まとめ

スペインやフランスだけでは見つけられない魅力がヨーロッパにはあることがわかりました。ニッチなヨーロッパ、訪れてみてはどうでしょう。

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