ロシアの歴代指導者を紹介します!(ロシア帝国ーロシア連邦)

今日はロシアの歴代指導者をロシア帝国からロシア連邦まで(ロシア臨時政府は含めていません)紹介します。あわせてロシアの歴史も詳しく学ぶことができるのでぜひ最後まで見ていってください!

目次

ピョートル1世

1672年~1725年

ピョートル1世はロシア帝国最初の皇帝でロシアの西洋化政策を積極的に推進し、政治、経済、文化、軍事など様々な分野で改革を断行しました。北方戦争でスウェーデンに勝利しバルト海を獲得、新首都サンクトペテルブルクを建設しました。ピョートル1世はピョートル大帝とも呼ばれておりプーチン大統領が尊敬数皇帝なんだそうです。

エカチェリーナ1世

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1684年~1727年

エカチェリーナ1世は、エストニアのリヴァのリトアニア系ポーランド人の貧しい家庭にマルタ・スカヴロンスカヤとして生まれました。幼少期は厳しい生活を送りましたが、美貌と機知に恵まれ、1703年にロシア軍に捕らえられた際に、騎兵隊長のピョートル・アプレクシンと知り合いました。

ピョートル2世

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1727年~1730年

ピョートル2世はわずっか11歳という幼さで即位したものの14歳で天然痘で亡くなってしまった皇帝です。そのため治世について評価するのは難しい皇帝だそうです。

アンナ

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1730年~1740年

アンナ・イヴァノヴナは、1730年から1740年までロシアを統治したロマノフ朝4代目の皇帝です。彼女はピョートル1世の兄であるイヴァン5世と、その妻プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァの娘として生まれました。アンナはドイツ人の顧問を重用し、ロシアの貴族たちを疎外しました。

イヴァン6世

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1741年~1741年

わずか17ヶ月間、なんと生後二か月で皇帝に即位し1740年から1741年までロシア皇帝を務めた人物です。イヴァン6世はエリザヴェータ・ペトロヴナ女帝のクーデターによって廃位され、生涯の大半を幽閉されて過ごしました。イヴァン6世は1764年、23歳の時にサンクトペテルブルクのシュリッセリブルク要塞監獄で獄死しました。

エリザヴェータ

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1741年~1762年

エリザヴェータ・ペトロヴナは、1741年から1762年までロシアを統治したロマノフ朝6代目の皇帝です。ピョートル1世の娘として生まれ、幼い頃から帝位継承者候補として育てられました。1741年、エリザヴェータは近衛兵の支持を得てクーデターを起こし、幼帝イヴァン6世から帝位を奪取しました。エリザヴェータが皇帝に即位していた時代、ロシア帝国は大きく経済成長をしました。また、芸術や学問の支援にも力を入れてロシア文化の黄金時代を築き上げました。

ピョートル3世

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1762年

ピョートル3世は、プロイセンに友好的で女帝エリザヴェータのもと七年戦争で戦っていたロシア軍を撤退させました。即位からわずか6ヶ月後の1762年7月、ピョートル3世は妻のエカチェリーナ2世を中心としたクーデターによって廃位され、暗殺されました。

エカチェリーナ2世

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エカチェリーナ2世は、1729年、北ドイツの貴族の家にゾフィー・アウグスタ・フレデリカとして生まれました。14歳でロシア皇太子ピョートル3世の妃候補としてロシアへ渡り、エカチェリーナと改名しました。夫ピョートル3世の即位後、その無能さと専制政治に失望したエカチェリーナは、近衛兵や貴族たちの支持を得てクーデターを起こし、1762年に皇帝に即位しました。エカチェリーナ2世は、啓蒙思想に影響を受け、法治国家の建設や教育制度の改革、農奴解放政策など、様々な改革を行いました。また、積極的に芸術や文化を振興し、サンクトペテルブルクをヨーロッパ文化の中心地として発展させました。

パーヴェル1世

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1796年~1801年

パーヴェル1世は、1754年10月1日にサンクトペテルブルクで生まれました。母はロシア皇帝エカチェリーナ2世、父はピョートル3世です。しかし、パーヴェルは幼い頃から母に疎まれ続けました。1796年、エカチェリーナ2世が死去すると、パーヴェル1世は42歳で皇帝に即位しました。

アレクサンドル1世

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アレクサンドル1世は1777年12月23日、ロシア皇帝パーヴェル1世と皇后マリア・フョードロヴナの第1皇子として生まれました。幼少期から英才教育を受け、祖母エカテリーナ2世の寵愛を受けながら育ちました。1803年、ヨーロッパの覇権を握ろうとするナポレオン率いるフランスが侵略戦争を始めると、ロシアも参戦します。1812年、ナポレオンがロシア侵攻を開始すると、焦土戦術を用いてフランス軍を疲弊させ、撤退に追い込みました。1813年、ライプツィヒの戦いでフランス軍は決定的な敗北をしフランスは劣勢となっていきました。1814年、ナポレオンが退位し、ウィーン会議が開催されました。アレクサンドル1世はヨーロッパの安定化を目的とした神聖同盟を結成し、ヨーロッパの盟主としての地位を確立しました。

ニコライ1世

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1825年~1855年

ニコライ1世は、皇帝パーヴェル1世と皇后マリア・フョードロヴナの三男として生まれました。彼は軍人として教育を受け、1825年に兄のアレクサンドル1世が亡くなった後、皇帝に即位しました。1853年、ニコライ1世はオスマン帝国に対してクリミア戦争を仕掛 けました。しかしオスマン帝国はイギリス、フランスと連合を組んだためロシアは敗北し、ニコライ1世は戦争中にサンクトペテルブルクで亡くなりました。

アレクサンドル2世

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1855年~1881年

アレクサンドル2世は、1855年から1881年までロシアを統治したロマノフ朝第12代皇帝。「解放皇帝」の異名を持ち、農奴解放令をはじめとする様々な改革を行い、ロシア社会の近代化に大きく貢献しました。しかしアレクサンドル2世はサンクトペテルブルクで「人民の意思」という反体制派のテロ組織に暗殺されてしまいました。

アレクサンドル3世

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1881年~1894年

アレクサンドル3世は、1881年から1894年までロシア帝国を統治した皇帝です。アレクサンドル3世の治世は、反テロリズム政策、経済改革、鉄道網の拡張などが特徴です。彼はまた凡スラブ主義を推進し、ロシアの影響力をバルカン半島に拡大しようとしました。アレクサンドル3世は、保守的で専制的な君主として知られています。

ニコライ2世

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1894年~1914年

ニコライ二世は、ロシア帝国最後の皇帝であり、ロマノフ朝14代目の皇帝でもあります。1868年に生まれ、1894年から1917年まで帝位に就きました。ニコライ二世は日露戦争、第一次世界大戦に敗北したり経済の失策を繰り返したことから無能な君主として知られ最終的にはロシア革命によって処刑されてしまいました。

ウラジーミル・レーニン(ウリヤーノフ)

最高指導者の期間→1922年ー1924年

ウラジーミル・レーニンは、20世紀初頭にロシア革命を主導し、ソビエト連邦の初代指導者となった革命家・政治家です。マルクス主義の理論家としても知られ、その思想は世界中の共産主義運動に大きな影響を与えました。1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会で、レーニン派とメンシェヴィキ派に分裂が起こり、レーニンは党の指導者となりました。1917年2月、ロシア革命が勃発し、レーニン率いるボリシェヴィキ派が臨時政府を打倒し、権力を掌握しました。

ヨシフ・スターリン(ベサリオニス・ジュガシヴィリ)

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1924年ー1953年

1878年、グルジアに生まれたスターリンは革命思想に触れ、ボリシェビキ派の一員としてロシア革命に参加しました。レーニンの死後、熾烈な後継者争いに冷酷さで勝利しソ連二代目の最高指導者となりました。ヨシフスターリンは農業国だったロシアの工業化を五か年計画(飢餓輸出を行って得たお金を工業化に回した)などを通じて推し進めソ連を背か有数の工業国家に押し上げました。一方でスターリンは熾烈な後継者争いも経験したことから猜疑心が非常に強く数多くの人を粛清したことでも知られています。スターリンによって数百万人が粛清されました。第二次世界大戦ではドイツに勝利し東欧や東ドイツをソ連の勢力圏に組み込ませることに成功しました。

ゲオルギー・マレンコフ

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1953年

ゲオルギー・マレンコフは、ヨシフ・スターリンの死後、短期間ソ連を率いた政治家です。1901年に生まれ1953年の3月から九月まで最高指導者を務めました。マレンコフは若い頃から共産党活動に携わり、スターリンの下で昇進を重ねました。マレンコフはスターリンほど権威を持っていませんでした。彼は経済改革や政治改革を試みましたが、党内での反対に直面しました。また、ニキータ・フルシチョフとの権力闘争にも敗れ、最高指導者ではなくなりました。

ニキータ・フルシチョフ

1953年ー1964年

ニキータ・フルシチョフは1953年から1964年までソ連の最高指導者を務めた人物です。フルシチョフはウクライナの貧しい農家に生まれ、若くして革命運動に参加しました。フルシチョフはスターリン時代の政治を批判(スターリン批判)したりキューバ危機の際はお互いに妥協するなどソ連を改革した人物です。

レオニード・ブレジネフ

1964-1982年

レオニード・イリイチ・ブレジネフは、1964年から1982年までソビエト連邦の最高指導者であった政治家です。彼の18年間の統治は、停滞の時代として知られています。ブレジネフ時代のソ連は、表面的な繁栄を享受しました。重工業や軍事力は強化され、国民の生活水準も向上しました。しかし、その一方で、経済体制の硬直化や官僚主義の蔓延、汚職などの問題も深刻化していました。

ユーリ・アンドロポフ

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1982年ー1984年

ユーリ・アンドロポフは、1982年から1984年までソ連共産党中央委員会書記長として最高指導者の地位にあった人物です。1982年、レオニード・ブレジネフ書記長が死去すると、アンドロポフは後継者に選ばれました。彼は改革派指導者として期待され、経済改革や官僚主義の撲滅などの政策を打ち出しました。しかし、彼の統治期間は短く、1984年に腎不全で死去しました。

コンスタンティン・チェルネンコ

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1984年ー1985年

コンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコは、1984年から1985年までソ連共産党中央委員会書記長としてソ連の最高指導者を務めた人物です。1984年2月にアンドロポフが亡くなった後、チェルネンコは後継者に選ばれました。当時72歳だったチェルネンコは、すでに健康問題を抱えていました。書記長として、チェルネンコは経済改革と規律強化を訴えましたが、彼の統治は短命に終わりました。1985年3月、チェルネンコは肺疾患で亡くなりました。

ミハイル・ゴルバチョフ

1985年ー1991年

ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフは、1985年から1991年までソビエト連邦最後の指導者だった人物です。1985年、ソ連共産党中央委員会総書記に就任すると、停滞していたソ連経済を立て直すためにペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(公開性)と呼ばれる政策を推し進めました。ペレストロイカは、市場経済の導入や企業の自主性を拡大するものでした。そしてグラスノスチは、言論・表現の自由を拡大し、情報公開を促進するものでした。

ボリス・エリツィン

ボリス・エリツィンは、ソ連が崩壊し生まれた」ロシア連邦の初代の大統領です。エリツィンは、ソ連崩壊という歴史的な転換期を生き抜き、ロシアの民主化を推し進めた立役者の一人であることは間違いありません。しかし、その政治手腕やリーダーシップについては、今もなお賛否両論があります。

ウラジーミル・プーチン(メドヴェージェフの後も)

ウラジーミル・プーチン大統領はロシア連邦の二代目大統領であり混乱するロシアをまとめ経済を成長させたことで人気を獲得し今もなおロシア国内で政権を握っている大統領です。プーチン大統領は国内の石油や天然ガスの企業を国営化しまた200年代に訪れた石油価格の高騰からロシア経済をV字回復させることに成功しました。彼はソ連時代KGBに勤めていたことでお有名です。2022年にウクライナ侵攻を始めてからは今まで以上に西側諸国から冷たい目で見られています。

ドミトリーメドヴェージェフ

ドミトリーメドヴェージェフは2008年から2012年までロシア連邦の大統領を務めた人物です。ドミトリーメドヴェージェフはタンデム体制と呼ばれるウラジーミル・プーチン氏との二頭体制を行ったことで有名です。ロシアの大統領は憲法により連続三選が禁止されており(二度目のプーチン大統領は2024年三期目に突入した)プーチン氏が親プーチンの彼を後継者に指名したといわれています。

まとめ

ロシアの歴史はとても面白かったです。このブログでは世界の国や都市を紹介するのでぜひ他の記事も見てみてください!

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