冬戦争について経緯・ソ連が苦戦した理由を紹介します!

今日はソ連がフィンランドに侵攻した戦争、冬戦争とフィンランドがドイツとともにソ連へ淫行した継続戦争について紹介します。個人的に一番興味深い戦争なのでぜひ最後まで見ていってください!

目次

冬戦争の経緯

戦争前

ソビエト連邦、ソビエト聯邦、ソ連、ソ聯、ソビエト、ソ連邦、ソ聯邦、ソ、蘇の国旗

1939年のソ連はナチスドイツとともにポーランドを分割し、バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)にも軍事的圧力をかけ侵攻し征服するなど領土の拡張を行っていました。

ソ連はフィンランドにもバルト三国と同様に軍事的圧力をかけながら国境地帯の領土割譲と基地の建設を要求しました。しかしフィンランドはこれを拒否しました。

1939年11月26日、ソ連兵13人が死傷する砲撃(マイニラ砲撃事件)がありました。。ソ連はフィンランドの行いとしてフィンランドに侵攻を開始したがこの砲撃はソ連の自作自演でした。

冬戦争

ヴぃーぷり

11月30日、ソ連は宣戦布告のないまま45万人の大兵力でフィンランドに侵攻しました。一方フィンr何度は19万人の兵力しかなくまた戦車や火砲、銃も不足していました。フィンランドはモシンナガンという旧式の銃を使っていました。

戦争がはじまるとリスト・リュティが首相となりカール・グスタフ・マンネルヘイムがフィンランド軍の最高司令官となりました。マンネルヘイムはカレリア地峡にマンネルヘイム線という防衛線を築きました。

フィンランドへは各国から11000人余りの義勇兵が集まりスウェーデンからは軍事物資が供給されました。フィンランド軍は険しい地形をうまく活用しスキー兵を運用するなどして少人数でたくさんのソ連兵を殺していきました。(モッティ戦術)

ソ連は1940年2月多数の死者を出しながらもマンネルヘイム線を突破し1940年3月にはヴィープリまで進撃しました。このころのフィンランド軍は悲惨で物資はより不足し多数の死者が出ていました。

終戦ー継続戦争

1940年3月12日モスクワでモスクワ平和条約がこれにより、フィンランドはカレリア地峡とラドガ・カレリアの大部分を割譲したました。この地域はフィンランドの中で工業が発達し第二の都市ヴィープリ(ヴィボルグ)がある重要な地域でした。

フィンランドは終戦後ドイツに依存(ノルウェーなどもドイツとなった)するようになり1949年8月にはフィンランド領内にドイツ軍が駐留するようになりました。

ドイツのソ連侵攻と継続戦争

ドイツの国旗

西ヨーロッパの大半を征服したナチスドイツは1941年6月にソビエト連邦に侵攻(バルバロッサ作戦)を始めます。フィンランドは作戦開始直後は中立を保ちソ連からの空爆が来るとソ連との戦争を始めました。(国防の口実)

フィンランドは順調に進撃し8月には1939年の国境まで押し戻しました。ドイツはフィンランド軍にもソ連第二の都市レニングラードへ進行するよう要請しましたがフィンランドはあまり群を動かしませんでした。

10月にはカレロ・フィンソビエト社会主義共和国の首都、ペトロザヴォ―ツクも陥落させましたが、ソ連が体勢を立て直していく中で戦線は硬直(1942年)しました。またイギリスに宣戦布告もされました。

1943年、ドイツ軍がスターリングラードで大敗を喫するとフィンランドは枢軸国が勝利する見込みはないと考え戦争終結に向けて考えるようになります。

1944年フィンランドはドイツに最後まで戦うといい支援を受け取りますが、ソ連と闘い続けた場合敗北は必至であった。ソ連に講和を持ち込んだもののドイツ軍との決別など(ドイツと闘うことになる)厳しい条件のため一度は講和を断りました。

終戦

最後までドイツと闘うと個人名義で宣言したリスト大統領が辞任しマンネルヘイムが大統領になると1944年9月19日にモスクワ休戦協定が調印されました。フィンランドはこれにより戦争が終わります。

モスクワ休戦協定はモスクワ平和条約に少し変更が加えられた内容でした。結局、カレリアやサラ、ペツァモはソ連領となりました。フィンランドはソ連から国を守りました。

シモヘイへってなにもの?

undefined

冬戦争について調べると必ずシモヘイヘという人物が出てきます。シモ・ヘイヘは、フィンランドの狙撃兵として542名のソ連兵を射殺した人物です。彼は、素早い射撃と高い精度を両立させ、スコープを使わずにアイアンサイトのみを用いて、300メートル以上の距離から敵兵の頭部を確実に射抜くという離れ業を何度も成し遂げました。ソ連兵からは「白い死神」と恐れられていました。また狙撃だけでなくマシンガンでもたくさんの戦果を挙げたそうです。

ソ連が苦戦した理由

スターリンによる赤軍大粛清

ソ連軍は大兵力でフィンランドに侵攻したものの上手くいかなかった理由にスターリンによる赤軍将校大粛清があげられます。この粛清の発端は、スターリンが自身の権力基盤を固め、反体制勢勢力を排除しようとしたことにあります。彼は、赤軍内部に反革命勢力が潜んでいると疑い、大量の将校や兵士を粛清対象としました。冤罪による逮捕や処刑が相次ぎ、ソ連軍の指揮系統は混乱に陥りました。この粛清で殺された人物の中には有名な縦深戦術を考案したり赤軍の近代化を行ったミハイル・トゥはチェフスキーも含まれていました。

モッティ戦術

undefined

モッティ戦術とは冬戦争において、フィンランド軍が圧倒的な戦力を持つソ連軍に対して行った包囲殲滅戦術です。この戦術は、フィンランドの厳しい冬の環境を最大限に活用し、ソ連軍の弱点である補給線や機動力の遅さを突くことで、数的不利を覆すことに成功しました。フィンランド兵はスキーを履いていたため高い機動力がありました。

フィンランド、すごいですね。

独ソ戦について フィンランドってどんな国?歴史・経済・観光スポットを紹介します!【2024年】 ソ連ってどんな国?歴史・経済・15の構成国を紹介します!

2 COMMENTS

山形舞夏

めちゃくちゃわかり安くまとめてくれてありがとうございました
これを見て勉強頑張ります!!!!!!!頑張ってください

返信する

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA