独ソ戦について

ナチス・ドイツ (1935–1945)の国旗。ナチ党の旗と異なりハーケンクロイツが中心から外れている。
ソビエト連邦、ソビエト聯邦、ソ連、ソ聯、ソビエト、ソ連邦、ソ聯邦、ソ、蘇の国旗

今日は第二次世界大戦中のナチスドイツと共産主義国ソ連の戦い、独ソ戦について紹介します。独ソ戦は史上最大規模の戦争かつ死者が桁違いな戦争として知られています。また第二次世界大戦におけるドイツが優勢から劣勢になった世界大戦の分岐点ともいえるでしょう。そんな独ソ戦を前提からベルリン陥落まで紹介します。

目次

開戦前

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画像引用 wikipedia https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Second_world_war_europe_1939_map_de.png

第二次世界大戦はナチスドイツがポーランドに侵攻したことから始まります。ナチスドイツはアドルフ・ヒトラー総統率いる国民社会主義ドイツ労働者党政権下のドイツのことで、反共産主義、反ユダヤ、東豊生存圏(ドイツのために東に土地を拡大すべし)という思想を掲げていました。第二次世界大戦が行われる前、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約というお互いに侵攻しないという条約を結んでいました。そしてドイツはポーランドに侵攻、合わせてソ連もポーランドに侵攻しポーランドはドイツとソ連に分割されました。

バルバロッサ作戦

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画像引用 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eastern_Front_1941-06_to_1941-12.png

ポーランド侵攻によって発生した第二次世界大戦。ナチスドイツは電撃戦によってオランダやベルぎーを降伏させ、また6週間でフランスも降伏させることに成功します。ヨーロッパ大陸の西側で敵のいなくなったナチスが次に目を付けたのはソ連。反共産主義、東方生存圏の思想を掲げるナチスドイツにとって一番敵視していたのがこのソ連でした。ナチスドイツは1941年6月22日、は兵力300万、戦車3580両をもってソ連に侵攻を開始しました。この侵攻作戦は神聖ローマ皇帝、フードリヒ・バルバロッサにちなんでバルバロッサ作戦と名づけられました。ナチスドイツは軍隊を三つの集団に分け、北方軍集団はソ連第二の都市レニングラードを、中央軍集団はソ連の首都モスクワを、南方軍集団は穀倉地帯のウクライナに侵攻しました。ソ連はナチスドイツの電撃戦によって次々と敗退していきます。

ソ連の敗退

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人間不信で知られるソ連の最高指導者指導者ヨシフ・スターリンは数多くの人間を粛清しました。その中にはソ連軍の将校も多数含まれており、数々の戦術を考案し赤軍の機械化を行い赤いナポレオンと呼ばれたミハイル・トゥハチェフスキーもこの時殺害されてしまいます。将校がいなくなり、不可侵条約に油断していたソ連軍はナチスドイツの大軍勢にどんどん敗退し1941年の冬にはレニングラードが包囲され、モスクワまで目と鼻の先のところまでドイツ軍は来てしまいます。1941年10月2日から1942年1月7日にかけてモスクワの戦いが行われますがロシアの冬がきたことや補給線がのびてしまったこと、赤軍の反抗によってドイツはモスクワを陥落することができませんでした。ここから独ソ戦は長期化していきます。

レニングラード包囲戦

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画像引用 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:RIAN_archive_324_In_besieged_Leningrad.jpg

1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻。三つの軍集団のうち北方軍集団はソ連第二の都市であり、ロシア革命の象徴であるレニングラードを目指します。ドイツ軍は9月8日にラドガ湖に到達、レニングラードを包囲しました。しかしゲオルギージューコフ率いるソ連軍が堅固な要塞を築いたため、思うように陥落させることができませんでした。そこでドイツ軍は力による制圧ではなく方位による飢餓作戦を実施することに。ドイツ軍は食糧庫や給水施設などを次々と破壊していきました。レニングラードは結局約900日間にわたって包囲され市民の死者は100万人に上りました。そして100万人の市民の死因の97%は餓死だったそうです。悲惨です。

スターリングラード攻防戦

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画像引用 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eastern_Front_1942-05_to_1942-11.png

ソ戦が長期化する中で資源を確保するためドイツ軍はコーカサス地方のバクー油田を狙いました(ブラウ作戦)。そしてドイツは戦略上重要な位置(ヴォルガ川がある)にスターリングラード(現ヴォルゴぐラード)というスターリンの名を冠する工業都市があることに気づきました。ここを落とすことができれば戦争のソ連の力を落とすことができ、またスターリンの都市が落ちたという印象から士気を低下させることができます。ドイツ軍はコーカサス地方を侵略する軍とスターリングラードを侵略する軍に分けられました。スターリングラードには初めに大規模な空襲が行われました。最初は優勢だったドイツ軍でしたがソ連軍の激しい抵抗(スターリンに一歩も引くなと言われていた)によりなかなか制圧できませんでした。そんな中ソ連軍はスターリングラードに増援部隊を送り続けしまいにはドイツ軍は包囲されてしまいます。一度は方位から抜け出すチャンスがあった(有能なマンシュタイン元帥が助けに来た)もののヒトラーに逃げるなと言われていた優柔不断なパウルスという指揮官は逃げませんでした。結局30万人のドイツ軍のうち20万人が死傷し、10万人が捕虜(シベリアに抑留され6000人しか戻ってこなかった)となった。このドイツ軍の大敗は独ソ戦や第二次世界大戦のターニングポイントとなりソ連軍が優位になっていったのです。ちなみにスターリングラードでは戦前150万いた人口が、戦いの終わったときには、3万2千人になったそうです。恐ろしい。

クルスクの戦い

画像引用 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eastern_Front_1943-02_to_1943-08.png 中央の突出部がクルスク

スターリングラードで大敗北をしたドイツ軍は、ソ連の都市クルスクの突出部を挟撃してソ連軍を包囲殲滅し、東部戦線における攻勢を再開することを目的とした「ツィタデレ作戦」を発動しました。一方、ソ連軍はドイツ軍の攻勢を察知しており、事前に防衛線を構築していました。1943ンdん7月5日、ドイツ軍はクルスク突出部の北と南から攻勢を開始しました。しかし、ソ連軍の頑強な抵抗に遭い、攻勢は思うように進展しませんでした。特に、7月8日~12日にかけて行われたプロホロフカの戦いは、史上最大の戦車戦として知られており、両軍合わせて約1,000輌の戦車が失われました。スターリングラードで敗退したドイツ軍の最後の攻勢に失敗しドイツは次々とソ連に敗退していきました。

バグラチオン作戦

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画像引用 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eastern_Front_1943-08_to_1944-12.png

完全に東部戦線において優位となったソ連はドイツ85万人に対し125万人で大攻勢を行います。その作戦がバグラチオン作戦というもの。この作戦はナポレオンとの祖国戦争で活躍したピョートルバグラチオンから名前をとられました。バグラチオン作戦では縦深攻撃という、敵部隊の後方に展開する部隊までを連続的かつ同時的に攻撃することで、敵軍の防御を突破し、その後に敵軍を包囲殲滅するという戦術(粛清されたミハイル・トゥハチェフスキーが考案)が用いられ大成功。戦線をポーランドまで押し上げました。

ベルリン陥落

ライヒスタークの赤旗とよばれる写真

1944年6月、アメリカとイギリスを中心とする連合国軍はノルマンディー上陸作戦を実行し、西側からドイツ本土へ侵攻を開始。1945年1月20日、バグラチオン作戦に成功したソ連軍も東プロイセンに侵入、ドイツは東西から挟み撃ちをされている状況です。1945年4月16日、ソ連軍はベルリンに向けて総攻撃を開始し着々と進撃を進め4月30日にはヒトラーが自殺、5月2日、ドイツ軍司令官アルフレート・ヨードル大将がソ連軍に無条件降伏を申し出ました。これにより第二次世界大戦のヨーロパ戦線は収束するのです。

まとめ

第二次世界大戦においてソ連は死者約2000万人を出しました。独ソ戦のような悲惨な戦争が今後起きないことを願います。ウクライナでの戦争も早く終わればいいですね。このブログでは世界の国や都市を中学生が紹介するのでぜひ他の記事も見てみてください!

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